|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 広州 : [こうしゅう] 【名詞】 1. Guangzhou (China) 2. Canton ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict ・ 年 : [ねん, とし] 1. (n-adv,n) year 2. age
広州の戦い(こうしゅうのたたかい)は、アロー戦争中の1857年に清の広州で発生した戦いである。当時イギリスは、南京条約や虎門寨追加条約では清の内地へと立ち入れず利益が上がらなかった。このため再び開戦しての条約改正を企図し、アロー号事件を口実にして、同盟を結んでいたフランスと合同で、アロー号事件の清国側の当事者・葉名琛のいた広州を攻撃・占領したのである。葉名琛は捕虜となった。 戦闘中に清朝の中央政府までは広州で開戦したという情報が伝わらず、清は対抗する作戦を立てることができなかったため、広州は陥落した。 ==アロー戦争以前の状況== アヘン戦争終結後、清とイギリスは南京条約などの条約を調印した。イギリス公使のジョン・バウリングは、イギリス人が広州市内へ入ることができるよう、南京条約と虎門寨追加条約の修正を求めていた。当時、両広総督は五口通商大臣を兼任しており、同時期に、ロシアとアメリカも自国との条約の修正を求めていたが、両広総督の葉名チンはその求めを断っていた。その上、西洋の外交官との面会さえ断っていた〔《苦命天子 咸豐皇帝奕詝》〕。 バウリングは、広州官署へ交渉に行くと申し出たが、葉名チンは広州市外の仁信インでの面会を求め、議論はまとまらなかった〔佐佐木正哉,鴉片戦争の中英抗争(資料篇稿),東京:1964年,p.185-p.186〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広州の戦い (1857年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|